初音ミクを代表するクリプトン社のCharacter Vocaloidシリーズに、巡音ルカというモデルがある。
シリーズでは初めて英語音声ライブラリを搭載した製品で、日本文化に詳しくなくても、楽器店のソフトウェアコーナーに輸入品が並んでいたから見覚えのある人は多いだろう。
このシンセサイザーの主戦場は日本だったが、当時の時点で国外でも数千本は売れていた。
そして使用者が増えるということは、当然、無断コピー品もそれだけ出回りだすということでもある。
…あまり褒められた話ではないのは分かっている。
最悪なことに、あの頃は金を払うのはクールじゃないとほざくバカが多数派だった。
「ローカライズをサボった報復だ」「"俺の価格帯"に合わせてくれない公式が悪い」ってな具合に。
そんなわけで2009年当時の(もちろん今も)インターネットのコミュニティでは、正規品を"割って"配布するやつは諸手を挙げて歓迎されていた。
特にポップカルチャーは人気株だった。それこそトレントファイルを漁れば、"英訳版"のアダルトゲームや小説・マンガに交じって、彼らなりの改良が加えられた各種ソフトウェアがいくつも出てくるくらいには。
"数千人しか"購入できなかったパッケージ版の巡音ルカも、しごく当たり前のように割られていた。
なにしろ大人気シリーズの最新作だ。発売から一週間で、ソフトウェア内のメッセージをポルトガル語に差し替えただけの"南米版"が出回りだした。
そこからは怒涛の勢いだった。
その手のアップローダを覗けば、訴訟回避の言い訳でGUIをドット単位でずらしただけの巡音ルカが大量に並ぶ光景が見られた。
"完全ヒスパニック対応"と銘打ったあれが出たのは1か月ほど経ったころだろうか。
それまでのコピー品を見る限り、頒布者たちは目新しい技術を持ち合わせておらず、英語丸出しのベタ打ち移植なら可愛い方で、正規版と比較すると余計な付け足しか、素人がスポイルした機能が無様にぶら下がっているものが大半だった。
あれが野心的だったのは、音源をできる限りヒスパニックに寄せたものにした点だ。
正規版の巡音ルカの英語音源は東海岸の発音に近く、k-音とth-音の発話に派手な擦過音が混じるのだが、"ヒスパニック対応版"は日本語でサンプリングされたカ行の音源を使い、できる限り違和感を隠そうとする努力が見られた。
二重母音や巻き舌も、ロールに打ち込めば可能な範囲で再現した音が流れた。完ぺきではなかったが、手が込んでることだけは伝わってきた。
ただしコーディング面は途方もなくお粗末だった。
音声を再生するたび不自然に長いロードが挟まったり、ヴィブラートを手打ちすると落ちることなんてしょっちゅう。
なによりそれ以上に、この海賊版はデータがいかれたプロジェクトしか保存できなかった。
私もすぐアンインストールするつもりで、しばらく試遊していた。
それで…あれはビートルズの"Eleanor Rigby"を打ち込んでいたときだったが…いきなり絶叫がヘッドホンから飛び出した。
キンキンに鼓膜を痛めた耳を押さえながら、もう一度再生ボタンを押すと、また女の金切り声が出てきた。
しばらく調べたところ、"Where do all they belong?"のフレーズの歌い切りに、コンマ数秒ほどの絶叫が入っているようだった。
それ以外の楽曲でも注意深く聞いていると、しばしば小さな吐息のようなノイズが混じっていることに気づいた。
ここまで来ると、もう私にも理解できた。"このソフトウェアにはもうひとり入ってるな?"と。
少し、Vocaloidの音声データについて説明しよう。
なめらかに"トマト"と発音しようとするとき、私たちはト・マ・トと一文字ずつ区切るようなことはしない。
実際には"ト"の母音が消える前に、次の"マ"の発声に移行しているはずだ。
そのため、正確に一音ずつ書き表すなら「ト・ォマ・ァト」という3つの音韻が必要になる。
このなめらかな発声を再現するために、Vocaloidのような一般的なヴォコーダーには、37音表を一音ずつ録音したデータとは別に、先頭に母音を付け足して録音した連続音源のデータが収録されている。
あの巡音ルカは、基本となる音韻とは別に、スペイン語話者からサンプリングした母音をくっ付けた連続音源が一緒に封入されていたのだと思う。
ほぼ全ての連続音源の音声ファイルの0.3秒目の部分に、奇妙なノイズが混じっていた。
それもひとつの音声ファイルをブツ切りにしたものを、切り身の魚のように別々の音声に差し込んでいた。
こいつらを繋げたとき、どんな音声が出力されるのかはだいたい理解できた。
女の断末魔をバックに、あの海賊版をばらまいた奴がどんな歌を機械に歌わせようとしたのか。
あの悲鳴は、クリーピーパスタで検索したらすぐ出るようなフリー音源じゃなかった。くぐもった一室で、生きながら喉をつぶされた女の最後の一声だった。
もう10年は昔の話になる。
その後にトレントファイルへの規制が始まって、心底ほっとしたものだ。


Comments
Share your thoughts or theories about this post.
Loading comments...