立川市、精神科救急病棟の最奥。
そこは、外部の音を完全に遮断するために設計された無響室であり、微かな空気の振動さえも吸い込まれてしまう死の静寂が支配していた。
私はその真っ白な部屋の真ん中で、重度のクロノメントロフォビアを患う男と対峙していた。
部屋には時計どころか、時間を示唆するものは一切存在しない。
しかし、壁の低い位置には、獣が暴れたような、あるいは血が滲んだまま乾いたような深い爪痕が無数に刻まれている。
男は床に蹲り、自分の胸をかき抱くようにして、絞り出すような声で話し始めた。
筆者:……気分はどうですか。少しは落ち着きましたか。
患者:……ま、ま、窓を、あ、あ、開けても、な、な、波の音すら、き、き、規則正しく聞こえるんです。む、む、無理なんです。
筆者:以前、発症のきっかけは耳の違和感からだったと伺いました。詳しく教えていただけますか。
患者:……は、は、初めは、た、た、ただの風邪でした。耳が詰まった感じがして、じ、じ、自分の心臓の音が、ドクン、ドクンって、頭の中で響き始めたんです。耳管開放症とかいう、あ、あ、ありふれた病気のはずでした。
筆者:その音に、いつから異変を感じたのですか。
患者:……あ、あ、ある夜です。寝ようと思って布団に入ったら、ドクン、という生々しい血の音が、急に、カ、カ、カチッという硬い音に変わったんです。冷たい、き、き、金属が噛み合うような音に。
筆者:それは、実際の時計の音ではなく、あなたの内側から聞こえていた。
患者:……そ、そ、そうです。そ、そ、それからが地獄でした。僕の心臓が刻む、い、い、一秒と、部屋にある目覚まし時計の、い、い、一秒が、ほ、ほ、ほんの少しだけズレていることに気づいてしまった。
筆者:ズレ、ですか。
患者:……に、に、人間の心臓は不規則です。でも、僕の心臓は、こ、こ、完璧な一秒を刻もうとし始めた。時計の音と僕の心音が重なる瞬間に、あ、あ、頭の中に火花が散るような激痛が走るんです。だから、わ、わ、僕は家中の時計を壊した。電池を抜き、針を折り、金槌で粉々に砕いた。
筆者:それで、音は止まったのですか。
患者:……い、い、いいえ。時計を消せば消すほど、せ、せ、世界が時計になっていった。す、す、水道の水滴も、ひ、ひ、人の足音も、ぜ、ぜ、全部が僕の心臓と、お、お、同じリズムで鳴り出したんです。雨が降れば、数千の雨粒が、一、一、一斉に一秒を刻む。そ、そ、空気が震える音まで、カ、カ、カチッと。
筆者:壁の傷は、その音から逃れるためのものですね。
患者:……ふ、ふ、不規則な、ぐ、ぐ、めちゃくちゃな音を立てたかった。つ、つ、爪が剥がれる音なら、肉が裂ける音なら、と、と、時計を殺せると思ったんです。あ、あ、あのリズムを、わ、わ、割りたかった。
筆者:……しかし、それも上手くいかなかった。
患者:……こ、こ、この部屋の、な、な、中まで、き、き、聞こえるんです。せ、せ、世界の、び、び、秒針が。
取材を終え、重い扉を抜けて廊下に出ると、担当医が沈痛な面持ちで立っていた。
あの壁の凄惨な傷は、患者が自らの爪を剥ぎ取りながら刻み続けたものだという。
不規則な苦痛の叫びを上げることで、世界が強制する一秒というグリッドから脱出しようとしたのだ。
しかし、結果は残酷だった。
医者が記録映像を見せてくれたが、彼が激痛に悶え、壁を掻き毟るその手の動きは、いつしかメトロノームのように正確な周期に収束していた。
彼が肉を裂く音さえも、今や原子時計を超える精度で一秒を刻んでいる。
もはや彼は、生きた人間ではなく、肉を被っただけの精密な計時装置に成り果てたのではないか。
三日後の深夜。私は自宅の書斎で、取材内容を書き起こすためにボイスレコーダーを再生した。
部屋を暗くし、ヘッドフォンを深く被る。
スピーカーから、男の湿った、震えるような吃音が漏れ出した。
……ま、ま、窓を。
その最初の「ま」という音が発せられた瞬間、私は心臓を掴まれたような衝撃を覚えた。
左腕の腕時計。その秒針が跳ねる音と、男の声の立ち上がりが、一ミリの狂いもなく重なっていた。
……あ、あ、開けても。
次の吃音も、その次の吃音も。
秒針が「一秒」を刻むその一点に、すべての発声が吸い込まれるように同期している。
私は恐怖に駆られ、一時停止ボタンを押そうとした。
だが、その時、ヘッドフォンの奥から聞こえてきた「音」に、私は指を止めた。
男が沈黙している、言葉と言葉の間の空白。
そこには、録音時には存在しなかったはずの音が、びっしりと詰め込まれていた。
カ、カ、カ、カ……。
それはレコーダーが拾った背景雑音ではなかった。
録音中の私の呼吸音、無意識に机を指で叩く音、衣擦れの音、そして、遠くで鳴っていたはずの深夜の街の喧騒。
それらすべてが、まるで誰かに指揮されているかのように、一秒の周期に沿って整列させられている。
私はヘッドフォンを脱ぎ捨てた。
だが、音は止まらなかった。
カチッ。
部屋の隅に置かれた観葉植物が、乾燥で小さく弾ける音。
カチッ。
冷蔵庫のコンプレッサーが鳴る音。
カチッ。
私の唾を飲み込む音。
私は自分の左胸に手を当てた。
そこには、もはやドクン、ドクンという温かい肉の鼓動はなかった。
代わりに、冷たく重厚な真鍮の歯車が、一秒ごとに噛み合う硬質な衝撃が伝わってきた。
カチッ。カチッ。カチッ。
私の体内のすべての細胞が、世界という名の巨大なクロック信号に同期していく。
不規則なノイズを立てようと叫んでみたが、その叫び声さえも、一秒ごとに区切られた断続的な音の塊として、正確なリズムを刻んで響いた。
窓の外を見れば、街灯の明滅も、風に揺れる街路樹の葉も、すべてが私の心音と重なり、巨大な一つの時計を構成している。
一秒。
その一秒の壁を越えて、次の瞬間に進むことしか許されない。
逃げ場はない。
私は、そしてこの世界は、ただ一方向へと、正確な速度で磨り潰されていく。
次の一秒が、また私を削り取っていった。





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